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2018-09-20 10:39:05
ノーセールスが続く営業が飛び込んだ一軒の借家。
「入んなさい。」のひと声から思わぬ展開に。
退去を目前に控えたお客様と新人営業のお話




新人研修制度が採用された最初の年、上司や先輩も疑問や不安を抱える新人の私をどう扱ったらいいのか解らなかったのだろう。とにかく1,000枚以上のポスティングを毎日するよう指示された。結果が伴えば良かったが半年以上ノーセールスが続き、“このままじゃダメだ!”と私は焦っていた。

昭和レトロを漂わせる同じ形をした戸建てが10棟ほど集まった社宅と思われる一帯にポスティングを行った。“古い家屋に住む借家の住人が新築戸建てを買うと思うか?”と先輩に説教されたかもしれないが、結果が欲しかった私はポスティングした翌晩に同じ社宅に飛び込み営業を行った。

20時過ぎ、1軒だけ明かりが強く漏れる家があり、吸い寄せられるように近付くと子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

(ダメ元だよ・・・)

心の中でつぶやきながら、呼び鈴を押した。


ピンポンという懐かしい音のあと、“は〜い”という大きな女性の声とともに玄関の扉が開き、ポスティングしたチラシの件で訪問したことを伝えた。

「今見てたのよ。入んなさい。」

女性は玄関口で話をしようと思っていた私を“早く!”と半ば強引に家の中へと誘った。

「お隣りの奥さんもいるから。」

“そんな時にいいのか?”と思ったが、すぐに謎は解けた。居間の座卓には私がポスティングしたチラシが2枚あり、向かい合ってそれについて話していたことは誰の目にも明らかだった。

『どこ?』
「いつも行くコンビニの近くよ。不動産屋さん、違う?」
『あそこね。本当に2棟だけ?』
「そのくらいの更地だったよ。そうよね?」
『あそこなら保育園も変わらなくてすむね。』

おふたりから矢継ぎ早に質問された私は、事態を整理するため両家とも新居を探しているのか尋ねた。

「そうよ。だからこんな時間に話してんじゃない。」

その借家は旧国営企業時代に建てられた社宅で、マンションへ建て替えるため、別の社宅への転居を提案されているという。子供の教育環境や住み慣れた街という理由もあったが、一番の問題は親しくなった両家が離れてしまうことのようだ。他家が間に入ることさえ拒み、とにかく“お隣りさん”を望んだ。

2棟建てフリープランの未公開物件は両家の望みを叶え、誰かに干渉されることもない。私が訪問したタイミングは、そんな理想を語り合っていた時だった。

『他の社宅はマンションだしね。』
「壁一枚の近所付き合いなんて無理。」

“今晩中に詳しい資料をお届けします”と切り出して私はようやく解放された。滞在時間わずか30分ほどだったが、緊張と圧倒が疲労を増幅させた。

すぐさま会社に戻り、資料を揃え終えた頃には22時を過ぎていた。お子様が寝ている時間に音を立てれば迷惑になると思い、“夜遅くにすみませんでした”と書いた手紙を資料に添えて両家の郵便受けに忍ばせ、その日を終えた。



翌朝、両家に電話を入れてご主人の帰宅時間の確認と資金的な話があるので両家別々に打ち合せしたいことを伝えた。まず前夜に伺った家を尋ねると資料が届くことを楽しみにしていたご夫婦は、深夜遅くまで戻ってこない私を心配したという。

「昨日の時点で、買うつもりだったけどね。」

そう話す奥様の横で、こくりと頷くご主人は驚くでもなく優しそうに目を細め、申し込み書類を記入していった。

「そろそろお隣さんのところへ・・・。説明も時間かかりますし・・・。」

私が言いかけると奥様は遮るように言葉を被せた。

「お隣りは、大丈夫。うちが書けば、黙って書くわよ。」

そんな訳ないだろうと思いながらお隣りを尋ねると、待ってましたとばかりに勢いよく扉が開いた。

『お隣りは書いたんでしょ?じゃあ、説明はいいから。すぐ書くわよ。』

両家の親密な関係を垣間見た光景は、その後も度々目撃した。モデルルームを仲良くチェックしたり、工務店での打ち合せもいっしょにすることもあった。

引き渡し前の最終確認で見た家の外観は、鏡で映したように瓜二つだった。間取りや内装まで合わせることはなかったが、お互いに我が家との違いを見つけては感心し、喜ぶ姿が印象的だった。

「またお隣り同士。これからもよろしくね。」

最終確認を終え、両家は物件前の小道であらためて挨拶を交わした。私にはその光景が、10人ほどの大家族と新しい大きな一軒家がそこに存在しているように映った。



変わったものと変わらないもの



引越しが落ち着いたころ挨拶に向かい、以前と同じように先に訪問する家のドアホンを押した。玄関のドアが開き私を一目した奥様は、躊躇なくお隣りに向けて大きな声を上げた。

「不動産屋さん来たよー!」

お隣りさんとの関係は変わっていなかった。私は、子供の頃に毎週楽しみにしていた日曜夜の国民的アニメのようなお隣り付き合いがちょっと羨ましかった。

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